ドラマ化 陰陽師安倍晴明 一介の公務員がスーパーヒーローになれた理由とは?

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3月29日に放映される安倍晴明には、剛力彩芽が久々のドラマ出演ということで話題になっていますね。

今回は、平安期から現代に至るスーパーヒーロー安倍晴明に焦点を当ててみました。

最強の陰陽師!1000年ヒーローの安倍晴明とは!?

安倍晴明とは,日本の呪術師史上トップクラスの陰陽師として,平安時代から江戸時代にかけて,様々な物語や絵巻物などに描かれてきました。

日本のスーパー・ヒーロー史の中でも屈指の人といえます。

決して伝説上の人物ではなく,記録に残されている実在した人物です。

しかし、伝説にあるようは狐の母からうまれたわけでもなく,ただただ陰陽師寮という役所の公務員として,働きながら,その学問に磨きをかけていった人です。

そして,80歳という当時としては超高齢にいたるまで隠居せず現役で働き続けました。

起きる不幸のほとんどが神や怨霊から受けるものであると人々が信じている平安の時代。

彼は,時代の要請でスーパーヒーローになっていきます。

その背景と実像に迫ります。

陰陽師安倍晴明のエピソード

まずは、彼にまつわる幾多のエピソードからです。

最強陰陽師としての安倍晴明には数々のエピソードが残されています。

陰陽師の挑戦を見抜き弟子にしてしまう

ある老僧が晴明のもとに弟子入りを志願しにやってきます、

その後ろには童子を2人従えていました。

晴明は童子を見ると即座にそれが老僧の操る式神であると察知しました。

同時に、老僧が自分と術くらべにきたのだということも。

そこで晴明は2人の童子を術で隠してしまいます。

人の操る式神を消すということは、その式神を我が僕にするということです。

仰天した老僧は、晴明が童子を式神と見抜いたこと、そして、それを我がものにしてしまったことからすっかり平伏し、本当に弟子になってしまったということです。

カエルで、式神の力を示す

晴明の式神の噂は貴族たちの間でかなり有名でした。

ある時若い貴族たちが生命のもとにやってきて、「式神を使って人を殺せるのならやってみろ」と挑発しました。

せいめちは、「できますが、試しに人を殺すというような真似はできません」と言って、木の葉に呪文をかけて式神にしました。

それをカエルに投げつけると、カエルはぺちゃんこになって死んでしまいました。

12もの式神を操った晴明

12もの式神に使役させ、奥さんに気味悪がられる

安倍晴明といえば式神。

式神とは一般の人には見えない使役神のことです。

人を殺せと言われれば相手を取り殺す怖い神でもあります。

それを操る人もさぞ怖いだろうと思いきや、晴明は式神たちを使って何をしていたかといえば、奥さんがいない間に家の雑事を式神にさせていたとのこと。

家の門が1人でにギーっと開くのをたまたま帰ってきた見て奥さんが気味悪がったそうです。

なお、そのエピソードに因んで、清明神社の門は、、電動で開くようになっているとのことですよ。

子供の頃、ある陰陽師に落として歩いていたら、鬼の行列「百鬼夜行」が見えてしまい、陰陽師に告げたところ、その能力を持っていることに感心して、晴明に陰陽師としての知識や技術を教えたという話があります。

このような「清明伝説」が、たくさん残っています。

陰陽師とは

ここで、陰陽師について簡単に解説しておきます。

陰陽師とは、陰陽道に則って、まつりごとをする人に進言する仕事です。

いわゆる公務員です。

陰陽道とは、古代中国で発明された「陰陽の2つの気と木・火・土・金・水の5元素が万物の原理」だとする陰陽五行説に基づいて日本で生まれた学問です。

陰陽道・天文道の専門官僚に就いたのは晴明が最初だと言われています。

安倍晴明の生涯

921年に現在の大阪府もしくは奈良で生まれたとされ、父は官僚:安倍益材だとか、陰陽師:安倍保名などと言われていますが、不詳です。

母は狐だとも言われていますが、これは生命がヒーローに祭り上げられた後の脚色。

実際は、あまりなのある家の子どもではなかったのが実情です。

小さな頃から鬼(付喪神」が見えたと言われる生命は、のちに当代の陰陽師、賀茂忠行、保憲父子から陰陽道を学ぶことになりました。

47歳で正式な陰陽師となったわけですが、平均寿命が40日そこそこだったと言われる平安時代において、かなり高齢で役職についたわけで、決してスーパーな人ではなかったと思われます。

50歳になると天文博士という職につきます。

これは、陰陽師の中でも1人にしか与えられない職で、この辺りからどんどん役職を上げて行きます。

仕事上の役職はかなり遅咲きですが、陰陽師としての技は若い頃のエピソードにあるように世に聞こえたもので、仕事上の出世はあまり気にせず、陰陽師としての能力を磨いてきた人であったといえますね。

高い役職につくようななったのは、70という超高齢をこえてからという、ひたすらたたきあげのひとといういめーじです。

それでも、朱雀帝から一条帝まで6代の天皇の側近となったというから仕事の能力も、役職も極めたというべきでしょう。

叩き上げの苦労人 安倍晴明

晴明は出世が遅く、出世競争に負けてしまったかのようにも見えますが、実際にはそのようなことは初めから眼中になかったたもいえます。

40歳までは一介の公務員

晴明の生涯は、さまざまな文書に見えるものから推し量ることができるようです。

それらによると、彼はは28歳の時に宮中に寝泊りして、介護や雑用を勤める係「大舎人」についたことが記録されています。

現代の感覚で言えば、28歳は40 以上にあたり、かなり遅いといえますが、それ以前は、詳細はわからないようです。

その後、陰陽寮主催の祭りの雑用係となるのですが、ここで、鬼払いの儀式で鬼を払う役人を演じたことが、陰陽師の道に入るきっかけになったようです。

人生の終盤に差し掛かっての転職活動といえますね。

40歳で陰陽師に転職

晴明が40歳の時に「天文得業生」となったことを機に、陰陽寮の賀茂忠行・保憲親子を訪ね、様々な手ほどきを、受けることになりました。

そこで、陰陽師としての能力に磨きをかけていくのですが、58歳で陰陽博士となります。

陰陽道を教える大学教授のようなものですから、役所の中での出世とはあまり関係ありません。

実務を認められて、公務員から大学教授になったようなものです。

退職してからの大爆進

その後70歳まで勤めるのですが、退職してからの出世がとんとん拍子という感じです。

75歳の時に主計権助

79歳で穀蔵院別当

82歳で大膳大夫

そして、従四位下にまで到達します。

このまま、死ぬまでげんえきをつらぬきました。

ひたすら一芸を磨いて、当時ではかなりの高齢の40代で転職。

一般的な出世競争には最初から参加せず 死ぬまで楽隠居もせず現役を通したというのが、安倍晴明の生涯から見える彼の生き方といえます。

決してもともとのエリートではありません。

同胞のたたき上げの人だったのです。

ヒーロー安倍晴明はなぜ生まれた

実在したことは間違いない安倍晴明。

実直でひたすら自分の能力を磨き上げた実直な人。

そんな彼は、なぜ、平安の時代から数多くの物語や草子、絵巻などの作品中に登場するほど人気があったのでしょうか。

「大鏡」「今昔物語集」、「宇治拾遺物語」「平家物語」など、なだたるものがたり、ぶんけんにとうじょうするのです。

占いに大改革を引き起こし、価値を不動のものとした

一つには、安倍晴明の陰陽師としての研究成果が認められたということがあります。

当時の占いは、大陸に学ぶことが当たり前で、大陸の文献にこうあるから、今日はこうすべきです、と進言するのが当たり前の時代でした。

誰が考えても当たり前のことを、いや、これな日本に合わないとみて、日本に合うようにオリジナルの形を作ったのが安倍晴明なのです。

オリジナルを作ったという成果は、驚きを持って当時の宮中に迎えられ、中国の文献にある占いよりも、安倍晴明の陰陽道の占いを取り入れてその日の動きが決定されるようになりました。

晴明の占いの結果が公式見解となったわけです。

これは、安倍晴明のオリジナル陰陽道を宮中が受け入れた、認めたということです。

日本独自の解釈を世に認めさせたことが、安倍晴明の陰陽師としての価値を後世に位置付けることになりました。

つまり、日本独自の陰陽道を作った人になったわけです。

晴明は,後の時代の陰陽師の要請でスーパーヒーローに祭り上げられた

世の中の様々な苦労が鬼の祟りによるものだと信じられていた平安時代。

陰陽師たちにとっては、それが、自分たちに需要を生み出すために大切な要件だったといえます。

世の中が鬼を恐れてくれることによって、陰陽師たちは活躍できるのです。

ですから、陰陽師たちは、後に安倍晴明を平安の町の守護者として祭り上げ、陰陽道の価値を高めようとしたわけですね。

これが、出世とは無縁の実直な公務員であり、研究者であった安倍晴明がヒーローになってあったわけだと言えるのです。

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