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NHK「光る君へ」紫式部の名「まひろ」とつけたのはなぜ?だれがつけた 娘の名前は?

-6サブカルチャー

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、紫式部が主人公です。

紫式部は、970年か978年生まれとされ、1019年頃まで生きたと考えられる人物。彼女が書いた「源氏物語」は広く知られている一方で、紫式部自身の実名は謎に包まれています。

その理由は明らかではありませんが、彼女の娘に関しては、今日でも実名が伝わっています。不思議ですね。

この記事では、なぜまひろという名前がつけられたのか。なぜ紫式部の名前が伝わらないのになぜ娘の名前が知られているのかなどについて調べてみました。

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「光る君へ」では、なぜ紫式部を「まひろ」と名付けた?

NHKの大河ドラマで、主人公紫式部に「まひろ」という名前がつけました。

これはなにか歴史的な発見があったのでしょうか?そうではなく、実はNHKの政策統括部による創作です。

「心に燃える何かを持ち、個性的である」という願いが込めらたものだそうです。

「まひろ」という名前は、平安時代の名前の流行とも直接関係はありません。当時は「〜子」といった名前がよく現れていますよね。彰子とか倫子とか。

むしろ紫式部のような宮廷で活躍した人には「子」という名前が一般的だったような気がしますが・・

とにかくはっきりしているのは「まひろ」はNHKの創作ということですね。

実際にはなんと呼ばれていたのでしょうか?今となって走る由もありませんね。

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紫式部の本名は「香子」という説とその理由

紫式部の名前について、藤原香子という説があります。この説は、1963年に角田文衛氏によって提唱されました。

この考察は、『御堂関白記』『紫式部日記』『栄花物語』という3つの文献に基づいています。

『御堂関白記』には1007年に藤原道長の娘・藤原彰子の女房として「藤原香子」が掌侍になった記録があり、『紫式部日記』には翌年、紫式部が藤原宣孝の娘の乳母を務めていることが記されているとのこと。

さらに、『栄花物語』には藤原彰子の女房に「紫式部」がいたとの記述があるということです。

これらの文献を総合的に分析すると、同一時期に藤原彰子に仕えていた「藤原香子」と「紫式部」が同一人物である可能性が浮かび上がるということなんですね。

特に、紫式部の父が藤原道長の側近であったことから、紫式部が彰子に仕えることは自然と考えられます。

このような理由から角田氏は、「藤原香子」説を主張しています。

しかし、この説には異論も多く、『御堂関白記』に記された「藤原香子」が紫式部とは別人物である可能性、『紫式部日記』が紫式部の出自を具体的には述べておらず、藤原香子であると断定するには不十分であること、『栄花物語』の記述自体が誤りである可能性もあるようです。

したがって、紫式部=藤原香子説は確定的なものではないのですが、今もなお多くの研究者や文学ファンの間で関心を持たれている説なんです。

 

なぜ、紫式部の名前が残っていない?

平安時代の女性名で「定子」「彰子」など「◯子」という名前が見られます。でもこれもこれは研究する際の便宜上の呼称なんです。

平安時代の人々は本名を公にする習慣がなかったため、わからないんですね。紫式部も同様です。

平安時代には「諱」(いみな)と呼ばれる本名があり、その発音が「忌み名」と通じるため縁起が悪いとされていました。

古来の神道の考え方に基づき、「言霊」(ことだま)の概念があり、名前には魂が宿るとされていたため、本名を他人に知られることは避けられていました。これは、本名を使われて呪いをかけられる可能性があるという恐れからです。

そのため、人々は本名ではなく通称を使用することが一般的でした。

特に女性にとっては、自分の名前を教えることは、自己の全てを相手に捧げることを意味し、これは結婚や求愛を受け入れる意味合いを持ちました。

結果として、平安時代の女性たちは、身内以外に自分の本名を明かすことなく生涯を終えることが多かったようです。

「源氏物語」や「枕草子」などの名作は後世まで残りましたが、作者や登場人物の本名が伝わらないのは、この文化的背景が大きく影響しています。本名が記録されているのは、中宮のような非常に高い身分の女性に限られていました。

 

紫式部の娘の名前は?

紫式部の娘の名前は「賢子」といいます。1000年頃に生まれた人です。

紫式部にも名前が伝わっていないのに、娘の名前は伝わっているの?と不思議ですね。

読み方は「けんし」や「かたいこ」などと言われています。

なぜ平安時代の女性で名前が伝わっているのでしょうか。その理由は、彼女が天皇の乳母となったからです。

賢子は、18歳で宮仕えを始め、母と同じく中宮彰子に仕えました。

彼女が乳母を務めたのは、後冷泉天皇(幼名:親仁親王)で、天皇になった彼のおかげで、賢子は第二三位という高位を授けらたのです。

そんな高位の人だから、名前が伝わっているんです。

賢子は歌人としての才能も高く、新古今和歌集にも彼女の和歌が掲載されているんですよ。母紫式部の名声で注目されただけでなく、彼女自身の和歌の才能も人々に認められたということですね。

 

まとめ 紫式部の名「まひろ」とつけたのはなぜ?だれがつけた 娘の名前は?

「光る君へ」をみていると、まひろ、まひろと言われているので本名なのかと思っていたら、NHKの制作統括がつけた創作でした。

本名には「香子」という説があり、その理由についても解説しました。

しかし、娘の名前が残っているというのは驚きでしたね。高位になったのだから残ったのですね。

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